おじさんとよばれても

研究研修者としてすら駆け出しの使い走りではあるが、それでも修士二回ともなると、大学のサークルの中では御大、或いは老害扱いである。ちなみに、この「二回」という表現は関西での大学生の学年を表す際に用いられる表現で、全国的には「二年」とした方が通りが良いようだ。しかしながら、この「二回」という表現によって関西の大学に所属しているという付加情報を相手に示すことができるので、ぼくはこの表現が気に入っている。

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最近学部三回生であるところの後輩女子に「もう十分おじさんですね」と言われたことで目の前が真っ暗、前後不覚、うろたえBANZAIのみっともないところを見せてしまった。もしかしてこんなに動揺するということが、それ即ちぼくがおじさんであることの証明なのだろうか。いや、誰しもが、生後初めておじさん扱いされたとき、きっとぼくと同様の動揺の感覚を持った、或いは持つはずであると固く信じる。これは彼が本当におじさんであるかどうかという事実とはまったく無関係である。

しかしながら、思えばぼくが陶芸部に入部して6年になろうとしているのだから、いわゆる"ピチピチ"の入部したての、と言うには少し時が経っているかもしれないが、ともかく一回生にとってぼくたちは永久とも思われる四年間大学に在籍し自己を律し高め勉学を修め、これを卒業した者としてある程度のメガネ越しに見られることになるのは当然だ。事実、ぼくが湯気立ちのぼるできたてホヤホヤの一回生だった頃には、先輩、特に院生たちが ・・・あれ? 特にそのような感覚を持った記憶はないな。

ぼくの所属する陶芸部の先輩たちは学年を超えて尊敬に値する素晴らしい∧面白いひとたちでいつもぼくの心は一杯であったために、そこに学年という付加情報は必要なかったのだ。ここだけの話、にしては少しpublicすぎるけれど、淡い恋心なんてものを感じたこともあったわけである。
人の本質・価値において、年齢は関係ない。とぼくは感じている。とぼくは考える。学年だとかおじさんおばさんとか、心に露ほども思い浮かべることはなかった。先輩の学年序列もわからなかったほどに。大体が、「年齢だけで敬意を求めるな」と言うひとに限って、後輩に敬意を払わないものだと思う。要するに 気にしてないから気にせよと言われると気に障る という論を振りかざす者は初めから気にしているのである。はぁ。

だのに、そのはずであるにも関わらず、ぼくが「おじさん」にこれほどの衝撃を受けたことは、ぼくの価値観が変質してしまったことを示すものなのであろうか。ぼくは歳がひとの価値を変質させてしまうものだと思うようになってしまったのだろうか。
答えは 否 である。認めるに心苦しいものがあるのは確かだが、これは以下のように認識するべき事態であるとぼくは確認する。
すなわち、「ぼくの本質にそれほどの価値があると、ぼくは認められていない」ということである。本質として乏しい価値しか持たぬぼくは、他者からある一定のネガティブな意味を含む「おじさん」というさらに価値を下げうる単語を受け入れることができなかったのだ。鼻で笑い飛ばすことができなかったのである。本来価値を持たぬ「おじさん」というワードさえ許容できないほどにぼくの価値が低であると考えているに違いあらへん。

では如何にしてこのような事態に対処すべきか。
かの後輩を問い詰め追い詰めかの言及を撤回させるべきか。
その答えももちろん 否 である。
自らの価値を若さに求めてしまうなら、それはぼくの価値観が変化することを意味し、それはぼくの中の別の価値観によって妥協と断定するに一切の考慮の余地はないし、またその行為そのものがぼくの中でどこか「おじさん」くさい。いや、今の論点はたとえ「おじさん」と呼べれても一切の自念が揺るがないことであるのだけれど。

問題は彼女の、いや、一般化すべきであるから、他者から見て、いや、これはほとんどぼくの問題であるから、ぼくから見て、「おじさん」という価値によってぼくの柔らかい大切な部分が揺らぐかどうか、という点である。
そしてそれが揺らいだようだとぼくが今認識しているのが問題の本質である。
そしてこの問題に今のぼくが解を持たないのが真の問題である。

うぅむ。

投げっぱなしで終わるのはとても哀しく遣る瀬無く、この憤りをどうしよう という思いで胸がはちきれそうだけれど、ともかく吐き出すことによってぼくの中のぼくの価値を、見出す/創りだす/諦める ことに精を出すことにしようと 思ったことであることだ。

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先輩たちはたとえ自分でおじさんであると宣言しても、彼ら彼女らのぼくの中での価値はびた一文足りとも安くなることはなかった/ない。
彼らのような、ぼくはひとたりうるのだろうか。
この疑問に対して、今のぼくが否定的解答しか持たないことが歯痒い。

まとめ

おじさんと言われてショックだったが、ショックを受けたこと自身がそれ以上にぼくの心に響いた。